ヴァザーリの絵には強烈な鮮やかさも、構図の大胆さもない。しかし繊細なタッチや綿密な描き込みによる、控えめな美しさがある。

ジョルジョ、もしぼくが天分に優れた何者かを持ち合わせているとすれば、それは、君と同じアレッツォ地方の、澄んだ空気の下に生まれあわせたからだ。さらには僕が乳母の乳から、彫刻を彫る鑿(のみ)や鉄槌を吸い込んだからだ。

『芸術家列伝』 – ジョルジョ・ヴァザーリ

冗談めかしてこのようなことを36歳年下の弟子に言ったのは、ミケランジェロでした。

ミケランジェロはルネサンス世界最高の芸術家であったにも関わらず、自身のことを石工と呼び、常に一人の「職人」であり続けた人間です。

それから数百年、フランスの王立絵画彫刻アカデミーの時代になって芸術家が地位を確立してからも、彼らの仕事はある意味「職人仕事」と言える地道なものでした。

「美しさ」という実にほのかで消極的な感動を追求するために、ひたすら修行を続け、筆を動かし続けていたのです…。

美しさが失われていく

洋服を語るときに限らず、私たちはありとあらゆる場面で「美しい」という言葉を使います。

このブログの読者の皆さんはきっと美しいものが大好きな方達で、「三度の飯よりもクロード・ロランの絵画を見ながら酒を飲むほうが健康に良い」と信じてやまないことでしょう。

それは否定しませんが、しかし深酒はいけませんな。あまり酔いがまわるとせっかく写実的なタッチで描かれた神話的な風景が、ゴッホの糸杉のように渦を巻いて見えるようになるからです。

さて、それはともかくとして、この美しいという言葉は難しいものです。

しがない田舎の洋服屋店主にはこの言葉を定義するような大それたことはできませんが、しかしこの言葉を使う度に私はあることを思うのです。

「美しさ」は日に日に失われている。

日々、インスタグラム等のSNSを見ていると、様々なものが写真で切り取られてアップされています。料理、車、建物、景色、洋服。

その中に美しいものはごまんと存在するように感じられるかもしれません。

しかし、それらの多くは「美しい」ではなく「すごい」という言葉で表されるものなのです。

「美しいもの」と「すごいもの」

「すごい」は決してbeautifulと訳されるものではなく、むしろincredible(信じられない)に近い感覚です。

程度が甚だしく、一般的なものからかけ離れていたり、自分が知っているものをはるかに超越しているものを表します。

この「すごい」という感覚が「美しい」に取って代わりつつあるということ。これが美しさが失われていくことなのです。

例えば車。

ヨーロッパのスーパーカーなどは、「フィーリング」や工業製品としての「美しさ」で語られていた世界です。

しかしこれはメーカーが脱却を図っています。

メーカーの伝統と人の感性が生み出していた美しさは、過激でインパクトのあるエクステリアへ。

運転した人にしかわからないドライブフィーリングは、絶対的な速さへと置き換えられていく。

つまり「すごい車」へと置き換えられているのです。

その一番わかりやすい結果として値段も3億、10億と非現実的なスーパーカーが生まれ、そのような車が公然に現れると、人々は感嘆をもって迎えます。

すごい車。

しかしその影では、美しさが少しずつ色あせているのです。

見えない部分で簡略化されていくもの

例えば型落ちのアストンマーティンを最新の限定モデルと並べれば、後者がより多くの人に注目されることは間違いないでしょう。

しかし職人の手作業によって一つ一つ削り出されるアルミパーツをはじめ、旧モデルの内装には存在した多くの「手仕事のあと」が、新型になって消えていることに、殆どの人は気づきません。

フェラーリやマセラティの塗装にしても、2000年代中盤までは職人が手で塗っていました。塗装面は厚くムラがあり、そこにはなんとも言えない奥行きがありました。

現代では殆どすべてが機械塗りとなっており、均一で薄くムラのない塗膜になりましたが、その代わりどこか無機質な印象になったのです。

しかし次々と更新される驚くべき速さと、過激なデザインから受けるインパクトに比べれば、塗装の微々たる違いなど取るに足りないでしょう。

合理化が時代の流れといえばその通りかもしれません。

しかしこういったスーパーカーの価格が1.5倍以上になっていることを考えれば、「人々が気づかないから」簡略化していると私には思えてならないのです。

そしてこうして簡略化されている部分にこそ、美しさというものは宿っていたのではないか。そんな風にも考えてしまいます。

サルトリアに最高の美しさを求めること

常に最高なものを仕立てる。Sartoria Piccirilloのジャケット。

さて、いつもながら長い例え話となってしまいましたが、きっとイタリアの洋服を愛する人であれば同じことを日頃感じていることでしょう。

幸いサルトリアの世界は、十分に美しさを残しています。

それはひとえにオーダーをする側がこの繊細な美しさを求め続けており、手仕事の尊さを理解しているからに他なりません。

しかしもし私たちのようなバイヤーが、手作業に価値を見出さず、ブランドタグばかりを求めるようになったとしたら。

そのときは、先ほどの車と同じく、「人々が気にしないから」という理由で多くの部分が省略されてしまうことになるでしょう。

洋服にとっての「すごい」は「ブランド」です。

ブランドが有名になって人気になればなるほど、その影でゆっくりと気づきにくい部分の美しさが失われていく。それほど寂しいことはありません。

大事なのは、サルトリアに最高の美しさを求めること。

私たちがブランド力やコストダウンを求めずにクオリティを求め、対話を続けていく限り、サルトリアは手仕事の美しい服を作り続けるでしょう。

そしてそれこそが、私たち洋服屋の仕事なのです。

 

…なんて真面目な話をしたのは、もちろん来るべき既製服のための伏線です。

最高のクオリティを追求した結果生まれた、あのサルトリアのハイエンドラインを、もうすぐみなさんにご紹介することになるでしょう。

ご期待くださいませ。

もしぼくが天分に優れた何者かを持ち合わせているとすれば、それは、君と同じナポリの、血がさわぐような空気の下に生まれあわせたからだ。さらには僕が乳母の乳から、生地を切る鋏(はさみ)やアイロンを吸い込んだからだ。

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