失われていく美しさ

ヴァザーリの絵には強烈な鮮やかさも、構図の大胆さもない。しかし繊細なタッチや綿密な描き込みによる、控えめな美しさがある。

ジョルジョ、もしぼくが天分に優れた何者かを持ち合わせているとすれば、それは、君と同じアレッツォ地方の、澄んだ空気の下に生まれあわせたからだ。さらには僕が乳母の乳から、彫刻を彫る鑿(のみ)や鉄槌を吸い込んだからだ。

『芸術家列伝』 – ジョルジョ・ヴァザーリ

冗談めかしてこのようなことを36歳年下の弟子に言ったのは、ミケランジェロでした。

ミケランジェロはルネサンス世界最高の芸術家であったにも関わらず、自身のことを石工と呼び、常に一人の「職人」であり続けた人間です。

それから数百年、フランスの王立絵画彫刻アカデミーの時代になって芸術家が地位を確立してからも、彼らの仕事はある意味「職人仕事」と言える地道なものでした。

「美しさ」という実にほのかで消極的な感動を追求するために、ひたすら修行を続け、筆を動かし続けていたのです…。

美しさが失われていく

洋服を語るときに限らず、私たちはありとあらゆる場面で「美しい」という言葉を使います。

このブログの読者の皆さんはきっと美しいものが大好きな方達で、「三度の飯よりもクロード・ロランの絵画を見ながら酒を飲むほうが健康に良い」と信じてやまないことでしょう。

それは否定しませんが、しかし深酒はいけませんな。あまり酔いがまわるとせっかく写実的なタッチで描かれた神話的な風景が、ゴッホの糸杉のように渦を巻いて見えるようになるからです。

さて、それはともかくとして、この美しいという言葉は難しいものです。

しがない田舎の洋服屋店主にはこの言葉を定義するような大それたことはできませんが、しかしこの言葉を使う度に私はあることを思うのです。

「美しさ」は日に日に失われている。

日々、インスタグラム等のSNSを見ていると、様々なものが写真で切り取られてアップされています。料理、車、建物、景色、洋服。

その中に美しいものはごまんと存在するように感じられるかもしれません。

しかし、それらの多くは「美しい」ではなく「すごい」という言葉で表されるものなのです。

「美しいもの」と「すごいもの」

「すごい」は決してbeautifulと訳されるものではなく、むしろincredible(信じられない)に近い感覚です。

程度が甚だしく、一般的なものからかけ離れていたり、自分が知っているものをはるかに超越しているものを表します。

この「すごい」という感覚が「美しい」に取って代わりつつあるということ。これが美しさが失われていくことなのです。

例えば車。

ヨーロッパのスーパーカーなどは、「フィーリング」や工業製品としての「美しさ」で語られていた世界です。

しかしこれはメーカーが脱却を図っています。

メーカーの伝統と人の感性が生み出していた美しさは、過激でインパクトのあるエクステリアへ。

運転した人にしかわからないドライブフィーリングは、絶対的な速さへと置き換えられていく。

つまり「すごい車」へと置き換えられているのです。

その一番わかりやすい結果として値段も3億、10億と非現実的なスーパーカーが生まれ、そのような車が公然に現れると、人々は感嘆をもって迎えます。

すごい車。

しかしその影では、美しさが少しずつ色あせているのです。

見えない部分で簡略化されていくもの

例えば型落ちのアストンマーティンを最新の限定モデルと並べれば、後者がより多くの人に注目されることは間違いないでしょう。

しかし職人の手作業によって一つ一つ削り出されるアルミパーツをはじめ、旧モデルの内装には存在した多くの「手仕事のあと」が、新型になって消えていることに、殆どの人は気づきません。

フェラーリやマセラティの塗装にしても、2000年代中盤までは職人が手で塗っていました。塗装面は厚くムラがあり、そこにはなんとも言えない奥行きがありました。

現代では殆どすべてが機械塗りとなっており、均一で薄くムラのない塗膜になりましたが、その代わりどこか無機質な印象になったのです。

しかし次々と更新される驚くべき速さと、過激なデザインから受けるインパクトに比べれば、塗装の微々たる違いなど取るに足りないでしょう。

合理化が時代の流れといえばその通りかもしれません。

しかしこういったスーパーカーの価格が1.5倍以上になっていることを考えれば、「人々が気づかないから」簡略化していると私には思えてならないのです。

そしてこうして簡略化されている部分にこそ、美しさというものは宿っていたのではないか。そんな風にも考えてしまいます。

サルトリアに最高の美しさを求めること

常に最高なものを仕立てる。Sartoria Piccirilloのジャケット。

さて、いつもながら長い例え話となってしまいましたが、きっとイタリアの洋服を愛する人であれば同じことを日頃感じていることでしょう。

幸いサルトリアの世界は、十分に美しさを残しています。

それはひとえにオーダーをする側がこの繊細な美しさを求め続けており、手仕事の尊さを理解しているからに他なりません。

しかしもし私たちのようなバイヤーが、手作業に価値を見出さず、ブランドタグばかりを求めるようになったとしたら。

そのときは、先ほどの車と同じく、「人々が気にしないから」という理由で多くの部分が省略されてしまうことになるでしょう。

洋服にとっての「すごい」は「ブランド」です。

ブランドが有名になって人気になればなるほど、その影でゆっくりと気づきにくい部分の美しさが失われていく。それほど寂しいことはありません。

大事なのは、サルトリアに最高の美しさを求めること。

私たちがブランド力やコストダウンを求めずにクオリティを求め、対話を続けていく限り、サルトリアは手仕事の美しい服を作り続けるでしょう。

そしてそれこそが、私たち洋服屋の仕事なのです。

 

…なんて真面目な話をしたのは、もちろん来るべき既製服のための伏線です。

最高のクオリティを追求した結果生まれた、あのサルトリアのハイエンドラインを、もうすぐみなさんにご紹介することになるでしょう。

ご期待くださいませ。

もしぼくが天分に優れた何者かを持ち合わせているとすれば、それは、君と同じナポリの、血がさわぐような空気の下に生まれあわせたからだ。さらには僕が乳母の乳から、生地を切る鋏(はさみ)やアイロンを吸い込んだからだ。

【ナポリ人に学ぶ】Sprezzatura スプレッツァトゥーラ(力の抜けたエレガンス)の着こなし方

 

アントニオ・パニコの実に自然でリラックスした着こなし。ビスポークジャケットは昔の物で完璧ではない。シャツは着古したアンナ・マトッツォのポロ。

こんばんは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。

最近は名古屋に行ったり東京に行ったりと出張が多く、ブログから遠ざかってしまい大変申し訳ありませんでした。

さて、よくファッションの世界では「隙のない着こなし」「完璧な装い」といった褒め言葉が用いられます。

ファッションのルールを熟知し、様々な優れたブランドを知り尽くして、スタイルを確立した人に対する賞賛の言葉として、これは適切な表現といえるでしょう。

しかし、ナポリに行くと、このような「隙のない着こなし」や「完璧な装い」といった言葉がぴったりと当てはまるような人が非常に少ないことに驚くはずです。

すごく美しいスーツを着ていても靴がなんとも不格好なものであったり、あるいは仕立てた服であっても肩幅や袖丈が完璧に合っているとは言えないものだったり。

また彼らが持っているバッグや小物類は、決してファッション性に優れたものばかりではありません。

しかしそれでもなお、彼らは非常にエレガントで魅力的に見えます。むしろその「力の抜けたエレガンス」はSprezzatura スプレッツァトゥーラと呼ばれ、世界を魅了しています。

身につけている物の一つ一つを見れば明らかに日本人の方がお洒落なのに、どうしてエレガンスでナポリ人にかなわないのでしょうか?

こだわりすぎないことのお洒落さ

ここにはある意味私たち日本人が陥りやすいトリックがあるのです。

それは、こだわり過ぎて逆にエレガンスから離れてしまうこと。

例えばこんな男性がいたとしましょう。

グレー系のグレンチェック柄スーツに、ひねりのきいたモンクストラップのビスポーク靴。最近話題のファッショニスタ愛用のイタリア製バッグ。そして裏地無しのセッテピエゲネクタイを立体的なノットで結んで、チーフを指している。

彼は考えられる限り最上のお洒落をしているはずです。しかし、どうしたことか隣に立った野暮ったい肩の落ちたスーツのナポリ紳士の方がお洒落に見えてしまうのです。

イタリア人だからお洒落に見えるということはありません。ナポリの人々は決して世界的基準のイケメンではありませんし、多くの人はスタイルもずんぐりしています。

注目すべきはお洒落をしている日本人が全ての物の「お洒落さ」「クオリティ」にこだわっているのに対し、イタリア人がアイテムとしては決して一番お洒落とも一流とも言えないが、なんとなく彼に似合っているものを身につけていることです。

「木を見て森を見ず」と言われがちな日本人、しかし個人的な意見では、日本人はトータルのコーディネートも上手で、非常にお洒落だと思います。

問題は、ひとつひとつのアイテムがお洒落すぎることなのです。

単体で見てお洒落なアイテム=香辛料

一つ知っておくべきことは、靴やバッグを全てお洒落なブランドで固めすぎるよりも、あるありきたりとも言えるセレクトにする方が自然で魅力的に見えるということです。

先ほどのグレンチェック柄のスーツの男性がお洒落というよりもやり過ぎに見えてしまうのは、一つ一つのアイテムに完璧なお洒落さを追求し過ぎているからです。

洒落っ気のあるスーツを着るときには、あえて他を比較的ありがちなアイテムにするとエレガントに見えます。

例えば先ほど例に出したグレー系のグレンチェック柄のスーツなら、普通の芯地入りのグレーのネクタイに、地味に見えるくらいシンプルな黒いフェラガモのブリーフケースと、ブランド名も覚えていない黒いオックスフォード靴を履いてみましょう。

案外こちらの方が、周りから見れば魅力的に見えているはずです。

逆にシンプルなネイビースーツにソリッドの心地入りネクタイを合わせて着こなすときに、細部にこだわったビスポーク靴と、雑誌でもファッショニスタが愛用するようなイタリア製バッグを合わせてみましょう。

これもまた、非常に魅力的に見えるでしょう。

単体で見てとてもお洒落なアイテムは、ある意味非常に香りの強い香辛料のようなものです。上質な素材でじっくりと調理したベースに加えれば素晴らしい料理になるでしょう。

しかし全てが香りの強いものであったら、料理はくどくなってしまうはずです。

「隙のない着こなし」に憧れてしまいがちな私たちは、どうしても全身をお洒落と言われるアイテムで固めてしまいたくなります。しかしそれは、ありとあらゆる珍しいと言われる香辛料を一つの料理に詰め込むのと同じことなのです。

自分を愛し、自分をよりお洒落に見せる物を選ぶ

往々にしてファッションが好きな人ほど、そのアイテム単体のお洒落さや評価で身につけるものを選んでしまいがちです。

例えばバッグは人気で雑誌にも出ていた○○にしたい、有名なファッショニスタが持っていた○○にしたい。ネクタイはお洒落な人が皆選んでいる○○にしたい……など。

しかし選ぶときにはむしろ、その大きさや形が自分の体型に似合っているか、持ち物のトーンが調和しているか、またそのテイストと自分の風貌や年齢が合っているか。そういう部分を注意深く検討しましょう。

(ちなみにそのときとても大きな助けになるのは、客観的な意見を述べてくれる女性です。彼女であれ、マンマであれ)

ナポリ人は「お洒落な物を愛してお洒落なものを選ぶ」というより、「自分を愛し自分をよりお洒落に見せてくれるものを選ぶ」のです。

そしてその自分をお洒落に見せてくれるアイテムを、自然な気持ちで身につけているとき、彼らはなんともエレガントで魅力的に見えます。

物のお洒落さで選ぶのではなく、自分を自然にエレガントに見せてくれるアイテムやその組み合わせを選ぶ。

ぜひそんな視点で、身につけるものを選んでみてくださいね。

自分のスタイルを確立するには? – 自分らしい服の選び方

Chi son? Sono un poeta. Che cosa faccio? Scrivo. E come vivo? Vivo.
In povertà mia lieta scialo da gran signore rime ed inni d’amore.

僕は何者か? 詩人です。何をしているか? 書いているのです。
そしてどんな風に生きているのか? 僕は生きているのです!
貧しさの中で 僕の幸せは紳士の贅沢 、愛の詩と賛歌…。

(Che gelida manina – La Boheme)

こんにちは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。これは特に自己紹介というわけではなく、今ちょうど私の部屋で流れていた音楽 La Bohemeの一節です。しかしなんと美しい詩でしょう。

「どんな風に生きているのか? 僕は生きているのです!」

何を持っているか、どんなステータスがあるか、そして人に比べてどんな暮らしをしているのか。そんなことではなく単純に、生き生きと自分の人生の一瞬を楽しんでいるのだと。なんと気の利いた自己紹介でしょう。19世紀の合コンであれば、実に好印象なセリフに違いありません。

しかし残念なことに、現代において状況はもうすこし複雑です。

2019年には詩人、音楽家、画家と哲学者以外にも様々な職業があり、多すぎる人口と溢れる情報の中で、私たちは的確かつ簡潔な自己紹介をしなければならないのです。

とはいえ、もしLa Bohemeのロドルフォがこのように自己紹介をしたらどうだったでしょう。

僕は何者か?

詩を書くのを仕事にするのが夢です。主には愛と人生の賛歌をテーマに描きたいと思っています。今は雑誌にちょっとした文章を寄稿して、報酬をもらって生活をしています。住んでいる家は屋根裏部屋でエレベーターがないのですこし不便ですが、パリ5区でカルチェ・ラタンからもそう遠くありませんし、アクセスも良い場所です。同居している音楽家に比べれば給料は良くありませんが哲学者よりは将来も安定していると思います…。

きっとLa Bohemeの美しく儚いロマンスは始まらずに終わったことでしょう。

同じように現代でも、初見の場所で長々と自分のステータスや仕事を語るのはエレガントとは言えないでしょう。かといって全く自分を理解してもらえなければ、大きなチャンスも逃してしまうかもしれない。

しかし心配する必要はありません。私たちにはビスポークの服があるではありませんか…。

自分を表す服を着ること

ローマから北に70km離れたヴィテルボの市街地で弁護士事務所を持っている男性が、有名なテルメ・ディ・パピ(温泉)でリラックスしていたとしましょう。きっと彼が弁護士であることを一目でわかる人はいないでしょう。

しかし、もし彼が庶民的なトラットリアでオルヴィエートの白ワインを片手にカルボナーラを食べていても、いつものチャコールグレーのスーツに白シャツを着ていたら、彼が弁護士やそういった仕事をする人物だろうということは、何となく想像できるものです。

つまり服は、言葉よりも自己紹介になるということなのですね。

他にも常に黒っぽい色をスマートに着こなしている人と、ブラウンやベージュを着ている人では、そこから連想される人柄も異なります。冷静沈着、無駄を嫌う合理的な男性がいつもベージュのジャケットにブラウンの革靴を履いている、ということはそれほど多くないでしょう。

このように、着る服を選ぶときに最も大切なのは、それがどういうブランドであるかでも、どれだけ人気なブランドであるかでもありません。本やインターネットに書いてある「この色を着るべき」や「日本人に似合うのは〜」という言葉は参考にすれど、それに従う必要はないのです。

最も大切なのは、自分を表すような服であるということです。色や柄に始まり、仕立ての雰囲気、そして着こなし方に至るまで。あなたを知る人が「あの人らしい」と一瞬で思うような選び方が、最もエレガントなのです。

例えば紺のスーツはベーシックな服で、誰もが持っているべきだと言われています。しかし、もし仕事が私服の人でしたら、紺のスーツを無理に着る必要はありませんし、逆に少しカジュアルな色や柄を取り入れてみる方がむしろ普通の着こなしになるはずです。逆に人によって紺が似合わず、むしろ明るめのグレーやベージュが似合う人もいるでしょう。

また同じグレーでも、ややグレージュがかった温かみのあるグレーが似合う人と青みがかったブルーグレーが似合う人がいます。チェック柄では若さのあるシンプルなウィンドウペンが似合う人も、様々な色の入ったガンクラブが似合う人もいます。

自分はどんなライフスタイルなのか?どんなキャラクターなのか?またはどんな人物像を目指したいのか?

そういうことを踏まえたうえで、服を選んでいる人、そしてそこにある種の一貫性があり、一本筋が通っている人は、オシャレに見えるものなのです。

自分に似合う服を知るには「経験」が必要

パーティ参加用に仕立てたスーツとスペアのグレーのトラウザー。「らしくないですね」と何人に言われたことでしょう…。

ではどうやったら自分を表すような服を選べるようになるのか。

必要なのは一つだけ、「経験」といえるでしょう。

残念ながら自分に似合う色、柄、シルエット、そして着こなし方というのは、実に色々なものを試してみないとわかりません。私がやや皮に近い部分のスイカ色のジャケットや、粒入りマスタード色のトラウザーや、ずんだ餅色のシャツを作って、そのうちのいくつかを失敗しているように…。

何着も仕立てたことのある人は、ネイビー無地のジャケットでさえ、自分に似合うトーンと似合わないトーンがあることに気づいているはずです。(ちなみに私もごく最近自分に似合わないネイビーのジャケットを作ってしまい後悔しているのですが、このジャケットはナポリでそのサルトリアに行くときに着る専用ジャケットとなるでしょう)

しかしその経験に基づいてスタイルを確立した人の着こなしからは、一目でその人らしさを感じ取ることができます。

大事なのは服を選ぶときに、自分でよく考えることです。

もちろん店員さんのおすすめや、そのときのトレンド、または自分の気分というものにも随分影響されるのが服選びです。しかし最終的には、その服が自分らしいかどうか、鏡で見て似合うかどうかを冷静にみることです。もっと言えば自分がよく行くカフェやレストランに馴染むのか、自分の乗っている車に馴染むのか、つまり自分のライフスタイルにその服が溶け込むかどうかを考えるのが大切です。

またその服が似合っているかどうかは、同じようにスーツやジャケットなどの服が好きな仲間よりも、自分の家族や服に興味のない人に見てもらうのが良いでしょう。私も含めて服が好きな人は仕立てたサルトリアや生地の希少性など、純粋な見た目以外の要素にも魅力を感じています。すると、似合っているかどうかという純粋な評価がしにくいのです。

ファッションに限らず、車や写真の世界もそうなのでしょうが、基本的に趣味の世界では褒め合うことが一般的です。冷静な意見を聞きたいときには、その世界にいない人に聞いてみると正直な感想をもらえます。

自分でよく考え、人に率直な感想をもらいながら選んでいるうちに、自分に似合うものだけが手元に残っていく。すると、自分の中に「こういうものはぜひ取り入れたい」「こういうものは避けたい」という基準ができていきます。

最終的に誰が見てもそこに筋が通っていることがわかるようになり、スタイルが確立してくるのですね。

 

あるとき当店のお客様がご来店後に某地方銀行の本社ビルに仕事で行く予定だと聞き、自分の車でお送りしたことがありました。しかし目的地に着いた瞬間、お客様がこらえきれずこうおっしゃったのです。

「大橋さん、ライトブルーのジャケットもマセラティのクーペも、ものすごく銀行本社ビルに似合いませんね」

「はい、なぜか私にはあまり縁のない場所のようで…」

いえ、私は嬉しかったのです。

スタイルがなければ、どこにいても何も違和感はないでしょう。似合わない場所や生活があるということは、その人らしい場所、そしてライフスタイルがあるということなのですから…。

Tutto a mano 本当のフルハンドメイドとは?

こんばんは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。

私の家はナポリ中央駅から徒歩10分弱のところで、その立地にしては実に静かなところにあります。

四六時中クラクションが鳴るのと、金曜日の夜に感極まった若者たちが投げる爆竹の音をのぞいては、日本とそれほど変わらない生活ができるのです。

そして極め付けに、ナポリには日本と違って夜出かけられる場所がほとんどない。すると東洋学科の友達と遊びに出たりするとき以外は、いじけてブログを書くしかないのですね。

Noi facciamo tutto a mano 全て手で作ること

サルトリアに行くと彼らは必ずと言っていいほど、こう言います。

Noi facciamo tutto a mano.
私たちは全部、手でやっているよ。

しかし実際にどのくらい手でやっているかは、サルトリアによって全く異なります。文字通り手で殆どを仕立てていくサルトリアもあれば、ハンドメイドと言いながら出来上がったパーツを買って使っているサルトリアもある。

特にジャケットの中の部分というのは、完成すれば見ることはできません。

この部分に関しては私たちのような店側が現地で仕立てているのを見て、確かめて、そしてハンドメイドという言葉を使う限りはそのクオリティを保証しなければならないのです。

実際これだけたくさんのブランドやサルトリアが日本で紹介され、売られているにも関わらず。仕立て工房の写真や仕立てている動画が全然紹介されず、ブランドのイメージ写真ばかりが雑誌やウェブサイトに用いられるのはなぜか。

それにはやはり見て欲しくない、という何かしらの理由があるのです。

しかしサルトリア・チャルディをはじめとして、当店で扱うサルトリアに行ったときにはむしろ、もっとその仕立て風景を紹介したいと純粋に思います。

彼らはいつ行っても当店のお客様の名前がチョークで書かれた生地をカッティングしたり、縫ったり、アイロンを当てたりしています。表から見ても、裏返してみても手縫いのステッチが走っていて、ハンドメイドであることがわかります。

作りかけのジャケットを見ても、そこにはすでに体の形に合わせた立体が生まれています。それは非常に丁寧なアイロンワークと芯地のハ刺しがあってこそ実現できます。

一着のジャケットやコートにこれだけの労力がかかっていれば、むしろ紹介せずにはいられないはずなのです。

熱意が伝わってくるか?

効率化しようと思えばいくらでもできてしまう時代です。うまくミシンを使えば仕立てにかかる時間は半分になるでしょう。

そんな中で頑なに手縫いの仕立てを続けるのは、いくらナポリのサルトリアであっても人並み以上の熱意がなければできません。

そしてその熱意を目の当たりにした人は、その仕事や真摯さを情熱を持って紹介したくなるはずなのです。

取り扱う人や、紹介する人がどれだけ情熱を持ってそのサルトリアやブランドを語っているかを見る。

また同じように仕上がった服にも平凡さや退屈からは程遠い、躍動感があります。

本当にTutto a mano 全て手作業で作られた服からは、いわばサルトリアの熱気が伝わってくるのです。

イタリア・ナポリ出張が始まりました

こんにちは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。

なぜこんな時間(すなわちイタリア時間の15:30などという明るい時間)からローマ駅近くのホテルに篭ってブログを書いているのか。

普段であれば天使面でブリオーニの本店を冷やかして、ちっぽけなカード入れを買ったりしている時間なのですが、これが轟くような大雨なのですね。

ところで私の調べによるとローマのフィウミチーノ空港は、『預け入れ荷物受け取りの待ち時間ゼロ分!』を1961年から実現している世界でも唯一の空港です。

その方法とは、ローマ人に入国審査をさせること

長蛇の列に並んでパスポートにハンコをもらったときには、とっくに預け入れ荷物がコンベアをぐるぐると回っているという算段です。

さて、それはともかくとして明日の朝にはナポリ行きの新幹線フレッチャロッサに乗ることになるでしょう。

プロフェソーレ・ランバルディ静岡の営業再開は12月9日を予定しております。出張中はメールの返信などお時間をいただく場合もございますが、あらかじめご了承くださいませ。

ローマとナポリの違いとは

この大雨のついでに、いつもは書かないようなちょっとしたコラムを書いてみるといたしましょう。

ローマはナポリ出張の度に立ち寄り、一泊することの多い場所です。私にとってイタリアはローマ〜ナポリであると言っても過言ではないでしょう。

とはいえローマとナポリは全く違う雰囲気を持つ都市です。

ローマは街自体が巨大なミュージアム、そしてアミューズメントパークのようです。どこにいっても観光客が歩いていて、それをターゲットとしたビジネスで半分以上が成り立っている。しかしローマに生まれない限り、ここでは誰もがツーリストです。誰もがウェルカムですが、その代わり奥深く例えば人々の生活に入っていくことは難しいのです。

それに対してナポリはナポレターノを中心にして回っている。そのルールに従うものはすぐにナポレターノとなって、その生活に参加する。そこには出来上がった小さな世界と、文化と、ローカルな繋がりがあります。敬意を持って、理解を示していなければ歩み寄ることさえできない。しかし一度関係を築くことができれば、まるで家族になったかのように深く、そして強い絆の中に入ることができるのです。

私にとってローマは恋人、ナポリは家族です。

今日は恋人の機嫌が悪いので、サルトリア・チャルディのジャケットが随分濡れることとなりました。

恋人は選べても家族は選べない。いいところも悪いところも含めて愛することしかできないナポリを控え、今日はゆっくりとブログを書いて過ごすことにいたしましょう…。

本来のナポリシャツの特徴とは? – ギャザー、手縫い、柔らかい襟…etc

おはようございます、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。

最近めっきりブログを書いていないと思ったら、急に白糸の滝のような勢いで書き始めたのはどうしてか。

この秋のひんやりとした風や木々のにおい、そこに名盤Somethin’ Else「枯葉」のマイルス・デイヴィスのトランペットが入れば(いや別のCDのポール・デスモンドが吹くホルンのように滑らかなサクソフォンでも良いのですが)、誰でもブログ記事の4本や5本、書きたくなってしまうものでしょう。

そう、私はこの季節のためにとっておいたのです。

文字を…。

こういう季節には、今までぼんやりと捉えていたことを改めて学び直すのが良いでしょう。例えばナポリシャツと呼ばれているものが、本当はどんな特徴を持っているのか。

ナポリの服の中でもシャツは特にショップやバイヤーの別注を受けて、様々な味付けがされているものです。では本来の姿は?という部分に注目してみましょう。

ナポリ人にとってシャツとは何なのか?

まずナポリでシャツがどういう立ち位置にあるのかを知っておかなければなりません。

ナポリ人にとってシャツとは、外に行くときはいつも着るべきものです。

彼らはトレド通りやキアイア通りに行くときはもちろんのこと、ご近所にお買い物に行くときでさえ、遊びに出かけるときは襟のついたものを着るという習慣があります。ナポリの人が全てそうというわけではなくとも、皆が何となく持っている感覚なのです。

誰もがハンドメイドでシクテスやカルロリーヴァ生地のシャツを着ているわけではありませんし、そういう人は多くないでしょう。

しかし少しでもおしゃれに気を使う人、すなわち驚くほど多くの人がイニシャル入りのシャツ、つまり簡易的なものであれカミチェリアでオーダーしたシャツを着ているのです。

毎日使うもの、好きにオーダーして楽しんで着るもの。しかしデートでかっこよく色男に見え、レストランでお洒落に映える服。これがナポリ人にとってのシャツなのです。

では一流カミチェリアが仕立てるハンドメイドのシャツは誰のものなのか?これはサルトリアで服を仕立てるような富裕層と、サルト達のためのシャツです。

彼らはビスポークのスーツに合わせて着るドレスシャツを求めている。そのクオリティは、やはり一流カミチェリアでなければ実現できないでしょう。

ナポリ人がドレスシャツに求めるもの

ではオシャレなナポリ人たちは、シャツに何を求めるのか。ナポリでは使う用途によってシャツに求めるものが180度近く変わること、それが日本ではあまり知られていないのです。

今回はビジネスやパーティなどで着る、スーツに合わせるドレスシャツ。薄青の無地や白シャツ、クラシックなストライプなどでネクタイをする前提に作るドレスシャツについて考えてみましょう。

そのようなとき、彼らがドレスシャツに求めるのは「いかにジャケットに合うか」ということです。そうしたことを考えた結果生まれるシャツの一番の特徴は、アームホールから胸回り、胴回りにかけてのフィッティングです。これらは着心地の悪くならない範囲で、できるだけタイトにします。

アームホールは小さく高くします。これはどうしてかといえば、ジャケットを着たときにアームホールが小さいと着心地の邪魔をしないからです。逆にアームホールが大きすぎればいかにナポリ仕立てのジャケットが優れていても、シャツがその動きを妨げてしまうのです。

ウエストや胸回りが十分に細くなければいけない理由はシンプルです。ジャケットのボタンを閉めて着たとき、生地の余りがたるみになって前に出てきてしまうのを防ぐためです。

ナポレターノはむしろお腹が前に出ている可能性の方が高いのでは?と思われるかもしれませんが、この辺ビスポークのスーツやジャケットを着ている人は特に強い美意識を持っているのです。

やや狭目の肩幅も大切な部分です。肩幅がジャケットよりも幾分狭くなっていることで、シャツとジャケットの関係をはっきりさせます。つまりシャツは肌の延長線になるわけです。

ナポリのシャツ=柔らかく高い襟 は間違い

さらに大切なのは、しっかりと高さを合わせた芯地の入った襟です。

よくナポリは襟高で、芯地はフラシで柔らかい、なんて説明をされることが多いです。しかしこれは大変一面的な説明だと言わざるを得ないでしょう。

ナポリのカミチェリアは必ず、首の長さで襟の高さを決めます。首が短い人に襟の高すぎるシャツは似合いませんし、首が長い人に低い襟も合いません。当店の扱うカミチェリア・ピッチリーロの場合、簡易版のオンラインオーダーでさえ襟の高さが調整できるようになっているのはそういった意味があるからです。

襟が柔らか過ぎるのは好まれません。ナポリ人たちはカッコよく決まるシャツを求めているからです。ですからネクタイをするシャツは必ずと言って良いほど半フラシ(表面は接着する)で、ちゃんと弾力を感じる程度の硬さの襟にします。

またナポリに限らず、ビジネススーツでフラシ芯のしわ感が目立つシャツを着るのは、やはり場面違いな感じがするものです。ビジネススーツに合わせるシャツでも何でも柔らかくしてしまうのは、日本でそのようなナポリシャツが誇張されて宣伝されているからでしょう。

彼らがドレスシャツに求めるのは、スーツやジャケット、そしてネクタイの姿が美しく決まることです。襟はある程度しっかりとしているのが大事なのです。

ナポリシャツのギャザーやシワは?

それではナポリシャツのギャザーやシワにいてはどうなのか。

ナポリシャツの特徴の一つとして、各所にギャザーが入っていることが挙げられます。これは可動域を上げる意味でも入っていますが、装飾的な意味合いもあるでしょう。

ナポリではこういうものだ、とされているのでビジネスでもあまり関係なくギャザーの入ったシャツが着られていますが、日本や他国のビジネスシーンで着るときには、このようなギャザーは少なめにしてもらうようにオーダーすると良いでしょう。

そうすることでよりスタンダードで、色々なシーンで着ることのできるシャツになります。フォーマルの場合にはあまりジャケットを脱ぐことはないでしょうから、そこまで気を使う必要はありません。

ナポリのシャツにはもうひとつ、余りジワがあります。

例えばこのシャツの前身頃、アームホールに沿うようにシワが一本走っているのが見えるでしょう。このシワについては、あまり過度に指摘したり、取ったりし過ぎてはいけません。

このシャツについて言えば、襟を閉めてネクタイをすればこのシワはわずかになります。ついでにシワは取ろうと思えば簡単なことです。しかしこのシワを取るということは、前肩に合わせて前身頃胸囲をより狭くするということです。

するとどうなるか。いつもより姿勢を正して背筋を伸ばしたときや、肩を後ろに引いたときに突っ張ってしまいます。そうならないように、動きを考えて生地を残してあるのです。

こういったシワは肩から胸回りにかけて特に多く残されています。もちろんシャツ職人に言えば取ってもらえますし立って鏡で見たときの見栄えはよくなりますが、せっかくのナポリシャツですから着心地のためにそのシワは残しておくのが良いでしょう。

全てのことには意味がある=シャツ職人に聞くこと

ひとつ覚えておかなければならないことがあります。

それはシャツは不完全さから成り立っているということです。

例えば見栄えを良くしようと全てのシワを取り切れば、動きにくく突っ張りやすいシャツになってしまいます。肩幅は広くぴったりと合っていた方が美しいですが、着心地を良くするには自分の肩よりも内側に入れ込みます。

このように着心地と見た目のバランスがせめぎ合った結果生まれているのが、ナポリシャツなのです。

そのためもしビスポークでシャツを作ったとしたら、襟の硬さやシワなど一見無駄や欠点に思えるような部分にも職人の考える「ベスト」が隠されている可能性があります。

またカフの形や襟のカーブなど、あるカミチェリアが採用していて、あるカミチェリアが採用していないものも多い。またあるカミチェリアが手縫いでやっても、他ではやらない部分もあります。

例えばカフ先端が内側に凹んだカーブは、手首にカフが当たらないようにした工夫です。その一方でストライプの生地などでは線が歪に削られて、ジャケットの袖口での見え方が不自然になる場合もあります。

それを採用しているかどうかは、着心地と見た目のバランスを考えてどちらを求めたか、という結果であり、採用していないとレベルが低いというわけでは決してないのです。手縫いでやっていないのは手抜きではなく、強度を求めた結果であるかもしれません。

ナポリのシャツは奥が深い。それを体験するには一度先入観を捨てて、職人やシャツを熟知したフィッターの意見を聞いてみるのが大切なのです。

なぜナポリ仕立てはファッションではなく、文化なのか

こんばんは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。

最近はご案内ばかりでめっきりブログが物足りなくなった、という方のために今日は実に経済効果のなさそうなブログを執筆することにいたしましょう。

なぜナポリ仕立てはファッションではなく、文化なのか。

こんな長くてくどい文章を書くのは、きっと今日が最後でしょう。今週は…。

服=ファッションなのか?

もともと洋服とファッションというのは、実に危うい関係性のもとに成り立っています。すなわちどちらも同じものとして見られがちで、確かに同じものである場合もあり、しかし全く別物として理解しなければならないこともある。

誂え服でもそれをどのようなスタイルで仕立て、どのように着こなすかを考えたときにはそれはファッションの範疇と言えるでしょう。

ファッションという言葉には、その時々のトレンドという意味があります。皆さんもご存知の通り、時代によって着ていて「普通」に見えるファッションは変わります。

私たちが愛してやまないクラシックスタイルでさえ、本質的にはここ数十年の変化の少ないトレンドと言って差し支えがないのです。

ですがプロフェソーレ・ランバルディ静岡では、ナポリ仕立てを少し違った観点から扱っています。それが文化というものです。

これは装い方というよりも作り手の物語であり、職人と顧客だけでなく、職人と街、顧客と場所、土地柄と感性など様々なものが複雑に交錯して出来上がった一つの「継続する遺産」なのです。

服、その特別なること

もともと、服は人間にとって単なるお飾りではありません。

エデンの園で平和に暮らしていたイヴは、ずる賢い蛇にそそのかされて善悪の知識の木になる実を食べてしまった。イヴに従いアダムにも食べさせた。するとたちまち2人は自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしくなって体をイチジクの葉で隠した。 – 旧約聖書『創世記』

また古い話を持ち出したなヘンテコな洋服屋め、と思われるかもしれません。なあに、昨日食べたご飯も覚えていない私にとって、24時間前も2700年前もそう変わりませんよ。

みなさんもご存知のこの一説ですが、面白い話だと思いませんか。

書かれている通り、知恵をつけた彼らは、まず真っ先に服を求めたのです。

紀元前3500年頃には人類最初の文明を起こしたと言われるシュメール人が、装飾的な羊毛のマントやベルトを巻くようなスタイルを確立していたと言われています。

写真は紀元前2600年頃、ウルのもの。

2000年以上にわたり世界そのものであったともいえる「貨幣」でさえ、紀元前7世紀のリディア王国が作るまでは本格的なものが存在しなかったのに、服はそれよりも3000年近く前からその形が追求され、改良されてきたのです。

服は単なるお洒落ではなく、ある時は実用的な意味で、ある時は宗教的な意味で非常に大切なものでした。

それから時代によって、また地域によって、服は進化しました。

体を守るため、裸体で恥をかかないために生まれた服は、部族や人種を表すようになります。次第に服は身分を、さらには職業を表すようになり、ついには小さな団体を、そして個人を表すようになりました。

運命的な服、ナポリ仕立て

時代は下って1900年代。

もはや多くの服が意味をなくし、単なるファッション=お洒落もしくは実用品になりつつあった時代に、極めて局所的で特徴的な服が生まれた。

作り手の物語であり、職人と顧客だけでなく、職人と街、顧客と場所、土地柄と感性など様々なものが複雑に交錯して出来上がった一つの「継続する遺産」としての服。

これがナポリ仕立てです。

それは今なお着る人だけでなく、街とそこに住む人、そこでの生活そのものに強い影響を与え続けている。

ここに「ナポリ仕立ては文化だ」私がといつも仰々しく書き立てている理由があります。

例えばミケランジェロのダヴィデ像。

これが紀元前3000年頃から脈々と伝承されてきた神話、そこから編纂された聖書、ヨーロッパ世界を支配したギリシア・ローマの文化、暗黒時代、そしてルネサンスと長い歴史の中で運命的に生まれた傑作であることはお分かりでしょう。

ナポリ仕立てもまた、そのようなものなのです。

ギリシア人が入植してから何度も支配者が変わることで生まれたナポリ独自の気風、地中海の風、都市国家というよりは王国として発展した歴史、英国人の置き土産、南イタリアの貧さ。そういうものが何万と積み重なって生まれた、運命的な服なのですね。

ほら、こうして想いをはせてみるとナポリ仕立てがより愛くるしく思えるではありませんか!

それは決して色の組み合わせや、裾の長さをどうするかというだけの話ではないのです。

文化には人の手がある

さて、もう一つ忘れてはならないことは、文化にはいつも人の手が関わっているということです。

科学技術が発達した現代において、一枚の写真を美しい絵画風の画像に変えるのは難しいことではありません。もはやAIが要望に合わせて絵を描いてくれる時代も遠くないでしょう。

しかしそういったものが文化と呼ばれることは、おそらくないはずです。

実は日本語の「文化」にあたる単語、英語のCulture カルチャーやイタリア語のCultura クルトゥーラはラテン語のColere コレレ = 「耕す」という単語が語源とされています。

それはどういうことか。

文化が人の手作業と、果てしない労働、そして無限の努力、そして何かを生み出すという強い意志によって生み出されるものだということです。

ですから大きなブランドロゴがあしらわれたハイブランドは文化というよりビジネスと呼ぶ方がしっくりきますが、毎日毎日続く果てしない手作業でしか生み出せない服を作り続けるナポリのサルトリア はいかにも文化と呼びたくなるものなのです。

建築が文化ではなく工業になったのは、20世紀に機械が実に効率よく動いてくれるようになってからです。

逆に量販店の白い家具を文化とは呼べなくても、クイーンアン時代のアンティーク家具を、いやそれどころか田舎の実家にある日本彫刻の入った古いタンスを文化と呼びたくなる感覚はどこからくるか……。

ナポリ仕立てを見にまとうとき、それがただのファッションではないことを少しだけ思い出してみましょう。

すると不思議と、一着のスーツが今までと違った色を帯びて見えるようになるかもしれません。

プロフェソーレ・ランバルディ静岡が扱うスーツは、”その色”のスーツなのです。

【ご案内】東京都内に新店『アンニ・セッサンタ』がOPENしました

こんばんは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。

今夜は急なお知らせをして、皆さんを困らせることにいたしましょう。きっと仰天して、手に持っているコーヒーをあなたの大切なトラウザーにこぼしてしまうでしょう。

すると新しく始まる(そして近日皆さんにご案内予定の)NATALE ナターレというトラウザーブランドが絶好調なスタートを切ると言うわけです…。

「今日は妙に酒が進むぞ」 – スヴィドリガイロフ

さて、急なお知らせというのは東京・汐留にオープンする姉妹店のご案内です。

名前はイタリア語で60年代を意味する『Anni Sessanta アンニ・セッサンタ』

これまで静岡まで実にたくさんのお客様に足を運んでいただきました。遠方からお越しくださる当店のお客様は実に情熱的ですし、私はやはりプロフェソーレ・ランバルディ静岡とそのお客様を更なるナポリ仕立ての深潭に導くことをやめないでしょう。

しかし同時に、この度JR新橋駅から徒歩5分の汐留イタリア街に姉妹店がオープンすることによって、静岡までお越しいただくのが難しい方にも本物のナポリ仕立てをご体験いただけるようになります。

『アンニ・セッサンタ』

街にはサルトリアが溢れ、誰もが馴染みのサルトで仕立てたスーツやジャケットを美しく着こなしていた60年代。
ナポリのキアイア通りが、サルトリアで仕立てた服を着た人々で溢れていた、美しい時代。

時代に左右されない 歴史に裏打ちされた本物のスタイルの提案と今なお脈々と受け継がれる高度な技術・文化の継承。

我々のコンセプトに共感してくれた稀代のマエストロ「アントニオ・パニコ」が最も愛した時代を店名に冠し、60年後にも美しいスタイルを、そのストーリーと共に。

実はこの『アンニ・セッサンタ』という店名は、かのマエストロ・アントニオ・パニコから頂いたものです。ストーリーはこちらから。

すでにご存知の方も多く、この業界で長年経験を培ってきた檀崎氏がオープンする姉妹店『アンニ・セッサンタ』。

サルトリア・パニコのMTMと当店で取り扱い中のほぼ全てのブランド、そして檀崎氏がセレクトしたビンテージやデニムを含めた商品を展開します。しばらくはプレオープン期間となりますが、通常通りご予約とご注文を承ります。

また、ひと月のうちの何日間かは私(大橋)も『アンニ・セッサンタ』にいる予定です。(随時ご案内いたします)

その期間中でしたら私の方よりサルトリアやナポリのお話をさせていただくこともできますので、もしご来店をご希望の方は前日までにご予約をお願いいたします。

お問い合わせ、ご予約は下記URLか当店お問い合わせフォームよりお願い致します。

それでは、ご機嫌よう。

Anni Sessanta アンニセッサンタ
東京都港区東新橋2丁目18-3 704

公式サイト http://annisessanta.jp

お問い合わせ http://annisessanta.jp/contact/

ご来店予約 http://annisessanta.jp/appointment/

Imperfezione 不完全さの美とは

こんにちは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。今日は珍しく真面目な顔をしてコラムを執筆しようとしています。題して、Imperfezione 不完全さの美とは。

この素晴らしい屁理屈じみた論証を以って、ナポリのスーツが持つ美しさの秘密を解明しようというのが私の魂胆ですな。

ナポリのスーツは完璧ではない、とよく言われます。しかし完璧でないにも関わらず、それは完璧なものよりも美しく感じられる。その秘密について、今回は探求していくのです。

不完全さ、この魅力を理解するとどんなメリットがあるのかって?

私の店にビンテージ生地や絵画の入った額縁が散乱しているのを指摘されたときに、「これが不完全さの美です」と言い訳ができるのです。(ああ、時がさらなる生地と絵画を店に与えんことを…)

Imperfezione 不完全さの系譜

人間が初めて不完全さの魅力に気がついたのはいつか。なんて大げさな書き出しをしてみましょう。

ヨーロッパの文化は歴史上、あるときまで完璧を目指してきました。ギリシアでは完璧な肉体美が求められ、ローマでは完璧な建築が目標とされました。中世では一度停滞した文化は12世紀ルネサンスを経て、フィレンツェで開花。

絵画についてみてみましょう。

ルネサンス絵画では今まで平面的であった絵画がより人間的、立体的になり絵はリアリティを増していく。ルネサンスが1600年頃に停滞を見せると、絵画の中心はフランスどんどん写実的に進歩して行きます。

この一連の流れではあくまで「理想美」を追求することが正義とされました。それはすでにリアリティを越して、人間世界を描くのではなく神話上の美を再現するという意味です。

そしてヨーロッパ文化が求め続けた「完璧な美しさ」は、新古典主義の時代にアングルやジェラールらによって完成します。

しかし彼らがその完璧さを追求する一方、ある方面ではそれとは異なる流れが生まれてくるのです。

それが不完全さの美を追求する動きなのですね。

不完全さとはテーマが人間の醜い部分であったり、あるいは描写の仕方であったり、筆使いであったりと実に様々です。

しかしその中で最も端的に不完全さの魅力を教えてくれるのが、最初に掲載した絵なのです。

カラヴァッジョの「果物籠」。ルネサンスの終焉と息継ぎをするように描かれた16世紀末のバロック絵画です。

これはまるで、いつもは何の気もなしに放ってある果物籠の美しさにふと気がつく瞬間を捉えたような絵です。現代人から見れば何ともない絵ですが、その時代の人々にすれば衝撃的な絵だったと言えるでしょう。

なぜならこの果物籠は不完全だからです。

葉っぱは所々枯れて居て、カゴは重さで歪み、りんごには虫食いがある。

これまでの静物画はもっと神聖で、メッセージ性のあるものが殆どでした。しかりカラヴァッジョはただその不完全な姿を、くっきりと写実的に描いたのです。

これが「不完全の美」というものなのです。

この後、完璧な美しさを追求する流れとは別に、それを否定し不完全の美しさを目指す者たちが現れるようになりました。

それは全ての建築を曲線に変えたバロック建築の巨匠ベルニーニであり、ヴィーナスだけに許された裸体を庶民で描いたエドゥアール・マネとも言えるでしょう。

ナポリ仕立てに息づく二つの「不完全の美」とは

J.R.R.トールキンの書く本のように長い前置きは終わりにして、洋服の話をすることにしましょう。

ナポリ仕立てのスーツには二種類の不完全の美が存在しています。

一つは完璧ではない身体のラインをそのまま再現することで生まれるものです。

もともとスーツは完璧ではない身体を美しく、完璧に近く見せるために作られた服でした。先ほどの話で言えばギリシア的な完璧な身体を服で再現しようという、大変怠惰な発想で生まれたものなのです。

未だこの理念でスーツを仕立て続けているのが、サヴィル・ロウのスーツです。

それに対してナポリ仕立てはより、着る人の身体をそのまま美しく見せようというものです。

肩パッドが薄いということは、肩を立派に見せるという意識が薄いのです。またアームホールが小さいということは、腕を太くたくましく見せるよりも着心地を優先したということです。

身体を自然に包み込むナポリ仕立ては、その人の体型の良い部分も欠点となる部分もそのままにしつつ、それを全てひっくるめて魅力にしてしまう。

これが一つ目の不完全の美なのです。

もう一つは、職人仕事によるImperfezione 不完全さです。

サルトリア・チャルディのエンツォはよく、この不完全さについてを話しています。

つまり機械製造ではなく人間が手で作るものには、多少の不完全さがある。

ステッチの歪み、ボタンホールの個体差、フィッティングのわずかな違い…。同じ職人が同じ顧客に2着目のジャケットを仕立てると、1着目とは似ても似つかないということも少なくありません。

しかしその不完全さは職人が仕立てたことの証明です。それは柔らかさ、味、雰囲気という目に見えない形となって「完全」よりも美しい「不完全」を作り出すのです。

これが二つ目の不完全の美です。

ちなみに不完全さの美は他にも、生地にも存在しています。織り感やネップのある生地、色むらのようなメランジ感のある生地。こういうものが好きな人は、完全なものよりも不完全なものを好む人ですね。

なぜ不完全に惹かれるのか

Camiceria Piccirillo カミチェリア・ピッチリーロのシャツ

しかしなぜ私たちはこれほどまでに不完全に惹かれるのか。

特にイタリア製のものというのは往往にして、「不完全さの魅力」としか説明できない何とも不合理な魅力を持つことが多いです。

一つには私たち人間が不完全な存在であるから、ということがあるでしょう。

ギリシャ神話も旧約聖書も完璧でない神々や人々の物語なのです。

そしてもう一つはこの時代性ではないでしょうか。

ありとあらゆる文化が、成熟しきった時代。全てがデジタルで管理できて、機械によって完璧且つ大量に作ることができてしまう時代。そして完璧に複製された様々なものが大量に飽和した時代。

そんな時代にあって「不完全さ」は、人間の手が通った跡を感じさせてくれるのです。

あれほどまでの写実性と完全美を手に入れたフランスの新古典主義絵画はたった一つの発明によって廃れてしまったと言います。

それはカメラです。

カメラによって完璧なリアル=写真が実現されたとき、パリの人々が求めたのは写実性ではなく個性と人間の手を感じる印象派の絵画だったのです。

完全無欠なスーツが大量生産でき、アプリケーションで完璧な採寸ができるようになるまであと一歩。

しかしそれが実現されたとき、文化を愛する人はもっと強く、ナポリ仕立ての不完全さを求めるようになるでしょう。

そしてこの店のような不完全な店が、ある意味「落選展」のように多くの人々の心を惹きつける日が、来たりしたらいいなあと、私は密かに願っているのです…。

【イタリア出張中】常識の通用しない街とナポリ仕立ての関係性

こんばんは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。

今日はキャッチーなホテルに泊まっていることもあり、大音量の音楽がギリギリ心地よいラインを超えて鼓動に響いております。

この一泊23ユーロの奇跡的な宿は、さらに奇跡的なことにナポリでもっとも大きな郵便局の横にあり、その辺の青空市場で買った雑貨や夢や理想といったものをすぐにEMSで発送できるのです。

なんでそんなに何度も郵便局に行くのか、可愛いナポレターナでもいるのかって?

私が郵便局に何度もいくのは、そんなんじゃありませんよ。窓口にたどり着けないからです。

どうして呼び出されているのが142番なのに、私の順番待ち番号が321番なのか…。

今日は隣町カゼルタに行こうとしたら、電車がさっき、ちこっと降った雨による深刻なダメージによって125分遅れになっていたときにも、同じ感動を味わったばかりですが。

常識の通用しない街

全くこれほど常識の通用しない街は、少なくてもヨーロッパにはあまりないでしょう。生活のしやすさ、という点では全くおすすめのできない場所ですし、正直慣れた人間でもナポリに愛想を尽かしそうになることは少なくありません。

どうしてここなのか、ナポリ仕立てはナポリに生まれてしまった。

この仕立てがあの美しく、整然として永遠の都ローマに生まれていたとしたら、どれだけ仕事のしやすかったことか。

しかし同時にこのようにも感じるのです。この常識の通用しない街だからこそ、ナポリ仕立ては生まれたのだと。

よくこのナポリという街は、カオスだと言われます。

ナポリ人が、ナポリ市街の北東にあるサニタ地区や駅前ガリバルディ広場周辺を「あそこはカジーノ(カオス)だよ!」と嬉しそうに揶揄しているのを聞きますが、私からすればナポリなどどこもカジーノじゃないかと密かに思っているのです。

このナポリのカオスという言葉をより詳細に説明するのであれば、これは「多様性と個別主義」のことなのですね。

あまりにも色々な人や考え方がごちゃまぜで、それぞれが好きなように勝手に生きている。しかし実はオートマティックな協調性のようなものもある。

それは文化です。

ナポリにいれば誰もがバルでエスプレッソを飲むし、ナポリで結婚式をやるなら誰もがジャンニ・ピッチリーロのところでタキシードを仕立てる、というようなある意味強制的ともいえる共通の文化があるのですね。

この強力な文化がこの多様性や個別主義と混ぜ合わさった結果、あのナポリ仕立てが生まれたのです。

服が好きなら一度はジャケットを仕立てる。しかし欲しいものはバラバラだ。それぞれがテイストを持っていて、またサルトも人間性が好きか嫌いかで選んだりする。さらに仕立てる側もそれぞれのやり方があって、他人のことは対して知らず、皆が自分の仕立てが一番だと思っている。

よくナポリでサルトリアにジャケットを着ていくと、「それはどこで仕立てたんだ?」と聞かれます。

私がサルトリア・チャルディといえば「ふーん良いんじゃん」と言い、サルトリア・ピッチリーロと言えば「ふーん知らない、サルトリア・ピッコリーノ(超小さいという意味)?」と言う。

別に聞く必要はないと思うのですが、なんとなく人のことを気にしながら深く考えていないというナポリ人の気質がよくわかる瞬間です。

ナポリ仕立てを着るなら、人と違っても良い

「ランバルディのお客さんのもこんな感じにするかい?この身長2mのお客は10.5cmのウエスマンにしてくれっていうんだよ!」と笑うジャンニ・ピッチリーロ。「ウエスマンを30cmにしても、マウリー(弟、お馴染みカミチェリア・ピッチリーロ)のところで着丈の30cm短いシャツをオーダーすれば、問題ないよ!」といつも冗談ばかり言っている。

日本人は(これは私の考えですが)ある程度、顔の傾向が似ています。もちろん色々な顔がありますが、顔の彫りの感じや、目の雰囲気など何となく皆近いものがあります。

見ためにおいて「これが理想的」というものも自然と似てくる傾向にあります。

しかしイタリアでは…特に南イタリアの中心であるナポリでは全てがごちゃごちゃです。言い方は悪いですが肌の白い人もいれば黒い人もいて、中間の人もいる。金髪も黒髪も、茶髪も白髪もいて、身長195cmの人もいれば160cmの男性もたくさんいる。

例えば日本ではともすると身長がコンプレックスになるかもしれませんが、ナポリではあまりにも色々な人がいて、逆に全く気にならなくなってしまうのです。

色々な人がいて、ナポリ弁という共通の言語と文化だけで繋がっている。この集団の中では、生まれ持ったものよりも、その人のテイストや人間性こそが評価されるのです。

だから一つ、ナポリ仕立てを着るときには気にしなくてよいのです。

皆と比べて背が低い、顔が大きい、足が短いなどどうでも良いのです。そのテイストが人と違っても良いのです。しているネクタイが皆の知っている一流ブランドでなくても、誰が笑うでしょうか。

自分を信じて、好きなように着ること。

これがナポリの文化で、その文化を背負った「ナポリ仕立て」を着る時には是非挑戦して欲しい着こなしのTIPなのです。