或る日、サルトリア・チャルディの工房で

1 La Sedia(その椅子)

Sartoria Ciardi サルトリア・チャルディの工房で私が座る席は、ミシン台の横の椅子と決まっている。

これは私がもう7年も前に初めて彼らを訪れたときから変わらない不文律だが、理由は単純明快だ。工房の中でそこが最も使われない席だからである。

サルトリアは静かだ。まるで図書館のような静けさがずっしりと佇んでいて、その中で重い裁断鋏が布を断つ音や、木の作業台を叩く音が時より聞こえてくる。そうでないときは、職人たちが針と糸だけで仕事をしているときだ。まるでJ.R.Rトールキンの小説全集をめくるように、音もなく果てしない工程を辿っている時間である。

これはひっきりなしにミシンの音が鳴り響くプレタポルテの工場とは対局の様子だ。

ナポリのサルトリアは「大量生産」とか「効率」とかいう言葉にたどり着くまであと300、400年か掛かりそうな様子であり、古代の家内制手工業がそのまま継承されているといっても過言ではない。

2 Il Sogno(夢)

私は彼らが用意してくれるカフェを飲みながら、いつも当店のお客様のジャケットやスーツ、そして重厚なコートの製作状況を眺めて回る。これはいつもと同じだ。

しかし今回はふと、懐かしいことを思い出す。

私が10歳や12歳の頃に見ていた将来の夢のことである。その頃の私の夢は考古学者であったが、そのイメージは随分と明確なものだった。

それは非常によく晴れた地中海か黒海に面したギリシア時代の古代遺跡で、私は自分自身が組織したプロジェクトでその世界遺産の遺跡を修復している。そして現地のスタッフたちと昼の休憩時間に横並びで座ってコーヒーを飲んでいる…というものである。

あれから18年の時が経ち、30歳になった今私は考古学者とはかけ離れた業界にいる。しかし本質的には私はあのとき望んだそのものの世界にいるようだ。ギリシャ植民地時代に築かれたこの地中海都市でナポリのビスポークスーツを支える職人達と共にカフェを飲んでいるとき、選んだ道は間違っていなかったように感じるものである。

3 Mano(手)

職人の手が通った跡、私はナポリ仕立てのスーツやジャケットを見るときにいつもその軌跡を追っている。

手で作られたもの、手で仕立てられたものには必ずその跡がある。

例えば2000年代前半の愛らしくボロいマセラティを買ったとしよう。なんてことはないダークネイビーのボディだが、南イタリア的な陽気の日にドライブをしていると、あることに気が付くはずだ。ボディの表面がまるでゆらめくような表情を見せるのである。

そこには事情がある。というのも、ゼロ年代前半のマセラティはフェラーリの工場で、職人によって手塗りで仕上げられていたのである。それが後半にもなると、自社工場での機械塗りになる。そして機械塗りになったマセラティにその艶やかな「ゆらぎ」は存在しない……。

スーツも同じだ。大量生産のスーツには不規則なゆらぎとか、有機的な曲線とか、そういうものは存在しない。手で仕立てられたスーツには、職人の直感が描くほんのわずかなカーブや、脈動のように走る飾りステッチ、そして二度と再現不可能な立体が存在する。

それらが唯一無二の、ハンドメイドの証となるのである。(まだ父のレナートが生きていたときから、チャルディ兄弟は“L’imperfezione = 不完全さ”を職人仕事の証拠として捉えている。)

そして不完全な存在である私たち人間は、時代がくだってもやはり手で作られた不完全なものを愛する。

4 Il Futuro(未来)

時は流れていく。時計の針はいつも無垢な顔をして円を描いているが、人間ひとりひとりの時間は明らかに一方通行で進んでいる。

私が最初にサルトリア・チャルディの工房に来た時、そこはまだ初代レナート・チャルディの工房だった。レナートが亡くなった後であったにも関わらずである。

彼を何十年傍で支え続けてきたパスクァーレと、数人の熟練した職人たちが相変わらず工房を支えていた。紙タバコの煙が渦巻き、博物館から盗んできたような旧世代のラジオから懐かしいカンツォーネが流れているような場所だった。

7年の時が経って、工房には新しい空気が漂っている。エンツォはもう偉大なレナート・チャルディの息子ではなく、彼自身がマエストロ・チャルディとして重々しい雰囲気でカッティングを行っている。その手には一切の迷いがない。

そして若きジョバンニとマヌエルがいつ来ても工房の作業台に向かって仕事をしているのは、ナポリで最も美しい光景の一つである。

最初にジョバンニに会った時から彼の真面目さと優しさ、誠実さは明らかに際立っていた。しかし数年経った今、彼には一種の風格が備わり始めている。それはサルトリア・チャルディの未来の後継者としての風格である。

 

To be continued…