古代ギリシャ、華やかなりしクレタ文明を開いたミノス王の時代。
ギリシャ一と言われるダイダロスという職人がいた。彼は王の信頼を得ていたが、あるとき王に疑いをかけられ息子のイカロスと共に幽閉されてしまった。
しかし彼は鳥の羽をロウで固め、牢獄から脱出できる大きな翼を作り上げた。
彼は息子のイカロスに言った。
「中空を飛びなさい。海に近づけば水しぶきで羽が重くなる。太陽に近づきすぎれば、ロウが溶け出すから」
二人は空を飛んだ。イカロスは父ダイダロスの背中を追うので必死だったが、次第に慣れてくると楽しくなって高く、空よりももっと高いところを目指そうと上空へと飛んでしまった。
すると太陽の熱でロウが溶け出し、イカロスは墜落してしまって、息絶えたのであった。
「イカロスの翼」 – ギリシャ神話
この話には色々な解釈があります。
人間の果敢さを讃えることがあれば、科学技術が急激に進歩していくなかで、身の程を知らずに大自然に挑戦していく人間を揶揄してこの言葉が使われることも少なくない。
「太陽を冷やす」と銘打って売り出されたドーメルのマジック。
この言葉を聞いて私が思い浮かべたのは他でもない、この教訓めいた話でした。しかしこの生地の現物を見たとき、ある考えがひらめいたのです。
人間がまだ答えを見つけ出していなかったとき、それこそが答えになると信じて一心不乱に追求した結果として生まれたものは、人の心を動かす美しさがあるのではないか。
すでに宇宙に到達しつつある現代の私たちがかの原始的なイカロスの翼を見ても、私たちはきっとそれを美しいと思うであろう。
そしてビンテージのドーメル、マジックという生地はまさにそんな生地なのです…。
なーんてまた定番のよくわからない書き出しをすると、読者の皆さんの目が回ってしまって、きっとうっかり来店の予約メールを送ってしまうことでしょう。(それならそれでしめしめ、という具合ですな)
そろそろ真面目に生地の紹介をすることにいたしましょう。
Dormeuil Magic ドーメル マジック
今回20種以上のドーメルやホーランド&シェリーのビンテージ生地を入荷することができました。
その中でも今回は、ドーメルのマジックという生地についてご紹介しようというわけです。
とはいえド平成生まれの私はドーメルが一世を風靡していた時代にはまだ、ビスポークはおろか細胞分裂さえままならない有様だったため、ビスポーク界がどんな状態かは存じ上げないのですな。
しかしやはりビンテージ生地を愛してやまないお客様のお話を伺えば、この生地がどれほど素晴らしい生地かは伝わってくるものです。
ドーメルのビンテージといえばトニックとブリオと言われ、今回ありがたいことにそれらも入荷したのですが、マジックもまた知る人ぞ知る名生地です。
最高品質のモヘアとウールを強撚糸にして、しかも縦糸と横糸の太さを変えて織ることで涼しさとシワに対する強さを生み出した生地。
シャリっとしたモヘアらしい雰囲気と上品な光沢が美しい。そして何よりも軽量でありながら仕立て栄えし、耐久性に富んでいるという春夏生地として奇跡のような特性を持っているのが、このドーメルのマジックなのです。
大ヒットしたトニック、ブリオ等と共に復刻もしましたが、やはりオリジナルまでの雰囲気は出ない。
そういうわけでビンテージならではの原毛の質の高さと、時間をかけた織りの風合いを求めて、マニアックな人々がこのオリジナルのマジックを探し求めているというわけです。
特に無地のブルー、ネイビー系などは早速使われてしまってなかなか残っていない。
今回入荷した生地にしても数着分に限られており、とても希少な入荷なのです。
人々がまだポリエステルやナイロンといった化学繊維に頼らず、天然素材の品質や織りの工夫でこれまでにない快適さを実現しようとしていた時代。
もちろんナポリ仕立てにしても、最初からストレッチ生地が存在していたら、ここまで独創的な文化を求めることはなかったでしょう。番手の低いウールでどこまで軽快な着心地を実現できるかを追求してきたからこそ、今の職人技があるのです。
そしてこのドーメルのマジックをナポリのサルトリアでスーツに仕立てること。これほど素晴らしい組み合わせはないでしょう。
なぜならそれは、あくまで自然のもとで限界に挑戦した職人たちの軌跡を辿り、目の当たりにすることなのです。
同じ快適なスーツを目指していても、アナログなビスポークという世界では、一見非合理的に見えるこんなアプローチが実にエレガントに見えるもの。
全ての人に理解してもらうつもりはありません。
どうせ空を飛ぶなら、鳥の羽をロウで固めた翼で飛んでみたい。
私はきっとそんなお客様に、ドーメルのマジックで作るナポリ仕立てをおすすめするでしょう…。