こんばんは、プロフェソーレ・ランバルディ静岡の大橋です。
今日はキャッチーなホテルに泊まっていることもあり、大音量の音楽がギリギリ心地よいラインを超えて鼓動に響いております。
この一泊23ユーロの奇跡的な宿は、さらに奇跡的なことにナポリでもっとも大きな郵便局の横にあり、その辺の青空市場で買った雑貨や夢や理想といったものをすぐにEMSで発送できるのです。
なんでそんなに何度も郵便局に行くのか、可愛いナポレターナでもいるのかって?
私が郵便局に何度もいくのは、そんなんじゃありませんよ。窓口にたどり着けないからです。
どうして呼び出されているのが142番なのに、私の順番待ち番号が321番なのか…。
今日は隣町カゼルタに行こうとしたら、電車がさっき、ちこっと降った雨による深刻なダメージによって125分遅れになっていたときにも、同じ感動を味わったばかりですが。
常識の通用しない街
全くこれほど常識の通用しない街は、少なくてもヨーロッパにはあまりないでしょう。生活のしやすさ、という点では全くおすすめのできない場所ですし、正直慣れた人間でもナポリに愛想を尽かしそうになることは少なくありません。
どうしてここなのか、ナポリ仕立てはナポリに生まれてしまった。
この仕立てがあの美しく、整然として永遠の都ローマに生まれていたとしたら、どれだけ仕事のしやすかったことか。
しかし同時にこのようにも感じるのです。この常識の通用しない街だからこそ、ナポリ仕立ては生まれたのだと。
よくこのナポリという街は、カオスだと言われます。
ナポリ人が、ナポリ市街の北東にあるサニタ地区や駅前ガリバルディ広場周辺を「あそこはカジーノ(カオス)だよ!」と嬉しそうに揶揄しているのを聞きますが、私からすればナポリなどどこもカジーノじゃないかと密かに思っているのです。
このナポリのカオスという言葉をより詳細に説明するのであれば、これは「多様性と個別主義」のことなのですね。
あまりにも色々な人や考え方がごちゃまぜで、それぞれが好きなように勝手に生きている。しかし実はオートマティックな協調性のようなものもある。
それは文化です。
ナポリにいれば誰もがバルでエスプレッソを飲むし、ナポリで結婚式をやるなら誰もがジャンニ・ピッチリーロのところでタキシードを仕立てる、というようなある意味強制的ともいえる共通の文化があるのですね。
この強力な文化がこの多様性や個別主義と混ぜ合わさった結果、あのナポリ仕立てが生まれたのです。
服が好きなら一度はジャケットを仕立てる。しかし欲しいものはバラバラだ。それぞれがテイストを持っていて、またサルトも人間性が好きか嫌いかで選んだりする。さらに仕立てる側もそれぞれのやり方があって、他人のことは対して知らず、皆が自分の仕立てが一番だと思っている。
よくナポリでサルトリアにジャケットを着ていくと、「それはどこで仕立てたんだ?」と聞かれます。
私がサルトリア・チャルディといえば「ふーん良いんじゃん」と言い、サルトリア・ピッチリーロと言えば「ふーん知らない、サルトリア・ピッコリーノ(超小さいという意味)?」と言う。
別に聞く必要はないと思うのですが、なんとなく人のことを気にしながら深く考えていないというナポリ人の気質がよくわかる瞬間です。
ナポリ仕立てを着るなら、人と違っても良い
日本人は(これは私の考えですが)ある程度、顔の傾向が似ています。もちろん色々な顔がありますが、顔の彫りの感じや、目の雰囲気など何となく皆近いものがあります。
見ためにおいて「これが理想的」というものも自然と似てくる傾向にあります。
しかしイタリアでは…特に南イタリアの中心であるナポリでは全てがごちゃごちゃです。言い方は悪いですが肌の白い人もいれば黒い人もいて、中間の人もいる。金髪も黒髪も、茶髪も白髪もいて、身長195cmの人もいれば160cmの男性もたくさんいる。
例えば日本ではともすると身長がコンプレックスになるかもしれませんが、ナポリではあまりにも色々な人がいて、逆に全く気にならなくなってしまうのです。
色々な人がいて、ナポリ弁という共通の言語と文化だけで繋がっている。この集団の中では、生まれ持ったものよりも、その人のテイストや人間性こそが評価されるのです。
だから一つ、ナポリ仕立てを着るときには気にしなくてよいのです。
皆と比べて背が低い、顔が大きい、足が短いなどどうでも良いのです。そのテイストが人と違っても良いのです。しているネクタイが皆の知っている一流ブランドでなくても、誰が笑うでしょうか。
自分を信じて、好きなように着ること。
これがナポリの文化で、その文化を背負った「ナポリ仕立て」を着る時には是非挑戦して欲しい着こなしのTIPなのです。